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- 「既に他人が書いているから」は、あなたが書かない理由にならない。|クロネのブログ
https://kurone43.com/tanin/ (2026年9月3日)
なんとなく書いただけの文章
誰かが既にやっているかもしれないから、自分はやる意味がないということに関しての詭弁について。
その詭弁とは、誰かが既にやっているからと言ってそれが別の人々にとって利用可能である事とは異なることがある。
たとえば、コンビニやスーパーは各地域に一定区間ごとに存在している。これは、それぞれが同じ機能を提供しながら、物理的な距離というコストによって、利用され続けるからである。例えば、東京都心にでっかいスーパやデパートを一つ建てたからと言って、地方や別の地域の人がそれを利用できるということにはならない。そこには移動という物理的なコストが存在しており、物理的には中央集権が成立しないためである。
これは、その話に限ったことではなく、様々なことに適用される。例えば一つ完璧なスマホを作ったから、全員がそれを使うということにはならない。シュアが大きい、小さいなど、マーケットの割合として傾向は現れるが、それでも完全に一つのスマホだけとはならない。ここでそれら多様性を成り立たせるコストとは、時代背景と値段という観点が考えられる。まず時代背景に応じて、作れるスマホは物理的に異なる。単純に考えれば、未来のスマホほど同じ価格帯でも高性能になっていき、過去のスマホほど、時代に制約されて低性能なものになる。また、スマホの買い手も、富裕層だけではなく、中流層から貧困層まで、様々な層のニーズがありまた、どの階層に属していてもスマホに求める性能や機能に応じて、どれだけスマホにお金をかける意思があるか、購買意思があるか、それぞれ異なる需要があることは明らかである。スマホを使いたくないけど仕方なく買うという人はあまりスマホにお金をかけたくないかもしれないし、スマホをバリバリに使いたい人は、高性能で高価で使っていて心地よいスマホがほしいかもしれない。同じスマホというジャンルにおいても、同じ事をする競合が存在する事を否定することにはならない。
もちろん、作るもの次第において、需要や市場の大きさは大きく異なり、母数が小さいので、思うように当たらないということは、よくあることだと思われる。それはその需要が無意味なのではなく、それ以外の需要に対して少なくとも他人から得られる収益や注目という観点からは、不利であるということである。そもそもその事を知るためには調査が必要であり、調査の一環には実際に作って売ってみるなど、実際に試行錯誤してデータを集めるしかないことが多い。基本的に試行錯誤や作ったものと、当事者としての自分は、個人としての自分と結びつけることは推奨されない。相手にしている物事は多様で気まぐれなことであり、制御できないことが多々あるということである。
既に誰かがやっている事を真似しても完全に同じにはならず、同じジャンル内で、異なる物事として作ったものは成立することになる。また、現実問題として完全な制御など存在しないが、試行錯誤しないことには、どうにもならないという現実からして、誰かと同じような事をやっていることが、必ずしも悪いことだとは限らないということである。何であれ、実際にとにかくやった人に対して、やっていない人は口を挟めないということである。
別の視点では、人々が共有して同じ物を意味しているつもりでも、実際には異なる物を意味しているというケースもある。言葉上では同じことになっているが、実際にはそうではないということがある。例えば、身近な例では男女という言葉を例に上げると、具体的にどんな容姿をしている存在を男や女だと捉える傾向があるかなどは、大きく個人差が出るところである。それを生物学的な観点から捉えたものを判定の基準に添えているのか、それとも印象で判断しているのか、男や女の例として判定者はどんな体験を持ち出しているか、個人差がないわけがない。
他の例では、白人と黒人という例もあるだろう。誰を白人だとして、誰を黒人だとするか、それはいろんな解釈があるものであろう。同じ作品を繰り返し見ても、かならず同じ体験や感想になるとは限らないだろう。
同じ事を意味して意味を共有しているつもりになっているとき、基本的に共有できていると言えそうなものと、できていないと言えそうなものがある。共有できていると言えそうなものは、個人の主観に基づかない物事である。例えば信号機は、赤、青、黄色の三色で構成されるということは、誰に対しても基本的に伝わるであろう。共有できていないと言えそうなものは、好き嫌いだったり、対象に対して、どう感じるかということだったり、対象に対して関係している考えや思想、思い出される記憶、人生で体験してきたことの母集団の偏り、その時その時の状況や都合など、いろんな物事から構成される各個人が対象に結びつけて捉えていることの無数の数々である。ここでいいたいのは、客観的なことが良いということではない。主観的なことが悪いということではない。客観的なことと、主観的なことは不可分に結びついているとは言えるかもしれない。同じ対象に対して、共有できていると言えそうな、客観的な要素があることは、共有できていないと言えそうな主観的な事がそれら対象に対して結びつかない事を保証しない。
学問でよく設定されるような理想状態は現実には存在しないので、完全な対照実験にもならず、完全に同じ条件で物事を繰り返すことはできない。時間は一度経てば、もう戻らない。異なる時間にやった同じ形式の物事は、どれだけ結果が似通っていても、同じ物にはならないし、同じ影響をもたらすとも、同じ結果になるとは言えない。あくまでそれらは、傾向として、異なる時間にやっても、似たような影響や結果が得られる物事があるということである。それをある程度考慮して、これからやる事を決めようとすることはよく試みられていることであるが、フレーム問題にぶつかり、結局完全にはならない。今の一瞬さえ完全に把握することもできないのにもかかわらず、全てを過去の物事から基づいて”賢く上手くやる”ことが現実的なわけではない。どうしても思うようにならないことは起こる。
そもそも、同じだと思っていることが、実際には異なることであることを自覚していなかったり把握していないとも言える。それもまた人間の不完全性と認知の限界から説明がつくことだと思われる。
誰かが既にやっているかもしれないから、自分はやる意味がないということに関しての詭弁には、2つの側面が見受られる。一つは、それを主張する側、もう一つは、それを利用する側(受け取る側)である。
主張する側は、相手に対してやってほしくないことに関して、そのような詭弁を使う可能性がある。相手に対して、特定の物事をやることが、賢明ではないという主張をすることで、主張者自らは自分を安全圏に置いて、周囲から好印象を引き出そうとしつつ、相手を下げたり、集団内において活動を不利にしたいということがあるのではないかと考えられる。
利用する側(受け取る側)は、現状の自分を正当化したり、自らの心身に対して言い聞かせて何かを自ら抑制、抑圧するために、そのような詭弁を使う可能性がある。やらなくてもいい理由を作るために、辛いときや余裕がないときなどに、そのような言説を利用する可能性がある。