今回考察する対象の言説

 単一の情報を調べるからだめなんだ。複数の情報を同じ対象に対して調べれば偏りはなくなる。ググれカス。

なんとなく書いただけの文章

 複数の情報を同じ物事に対して調べて情報を漁っても、そもそもの情報が偏っていたら話にならない。ネットでは、LLM とかが話題になる以前から、そもそも同じようなことを異なるメディアが発信するという状態が存在しており、現在はそれがよりひどくなっていると思われる。あくまで、複数の情報源を利用することは、リスクを低減しようとする試行錯誤の手段ではあっても、絶対的な対策ではなく、逆に逆手に取られて対策を破られてしまうおそれがある。複数の異なるメディアや異なる記事に見せかけて、特定の方向性に話を持っていこうとするという情報操作はあり得ると思われる。情報を調べた者としては複数の情報にあたったのだから大丈夫だろうと油断し、あくまで緩和策でしかないことを信じ切るという油断があると思われる。これに対する対策は、異なる情報源に触れたことではなく、様々な情報源にあたった上で、どれだけ比較してみて異なる情報が実際のところあったか確かめたり、情報に傾向や偏りがないか調べることが考えられる。また、それをしたうえで、あくまで暫定的であるとする態度を情報に対して崩さないことが重要であると思われる。自分で直接体験して現場を知っているとかでもない限り、情報と付き合うことは常に疑い続けることとセットであり、万能な方法はない。これは情報が有料、無料ということに限らない。

 情報を得るコストが高い情報が複数あり、同じことに対して異なる記述がある場合は比較的リスクは低いかもしれない。逆に情報を得るコストが低い情報は、同じことに対して複数の情報を集めたところで、リスク低減には効果がないか、逆にマイナスになるかもしれない。さらには、情報を得るコストが高いからと言って、必ずしも期待した情報が得られるとは限らない。

 情報を方法によってうまく扱おうとすることは、限界があり、現実的ではないところが多いように見受けられる。汎用に情報にまつわる問題に対処する方法といえば、せいぜい精神的余裕がないことを自覚するとか、情報を受け取ってもすぐには判断せず、必ず寝かせて冷静になってからちょっとづつ考えるとか、そもそも期待している情報が存在しない可能性を考慮するといった、時間をかけた長期的な視点でしか取り組めないことしかないだろう。短期的な視点で、かつリスクを情報において背負いたくなければ、無理してまでそもそも情報を得ようとする事自体をやめたほうがいいかもしれない。情報を得る前に、そもそもなぜ情報を受け取ろうとしているのか、自問自答したほうがいいかもしれない。そこで明確な目的が出てこなければ、それは自分の意思ではないかもしれない。

 複数の情報媒体を合わせることは、異なる立場、異なる利害、異なる都合、異なる背景を持つ情報発信をする存在を組み合わせるということになる。また、異なる存在による情報を複数集めているつもりでも、実際には同じ立場、同じ利害、同じ都合、同じ背景による情報を掴まされている可能性が常にあり、情報発信者がどうやって情報を作っているかをすべて検証したり知ることは読者にはできないことに留意する必要がある。

 私個人としては、ネット、テレビ、新聞、ラジオ、LLMやAIだと呼ばれている物など様々な情報を媒介するブローカやプラットフォームのようなものは、どれかに優劣があるということではなく、それぞれの情報の性質や傾向は異なれど、基本的には信頼できないと考える。実際に当事者として体験したこと以上に信用できる情報はないと考える。それ以外の情報においては、どれも優劣は基本的にないと考える。何かを仲介したり媒介して情報が出てくるまでにブラックボックスがある物事は、どの媒体や複数の情報であっても何を使えば有利だとか賢いということはなく、それぞれの情報を媒介するブラックボックスを持つ物事は、相殺し合うようにメリットとデメリットと言えるものを持っていて、どれがいいとは一概に言えないと思われる。

 さらには、情報には、特別な共謀や悪意がなくても、暗黙の了解や集団内で共有されたことを異なる情報間で暗黙の前提として無自覚に書き手、読み手の多くがそのままにしていることがあり、それが情報に偏りと誤った確信を与えてしまうおそれがある。すべての情報の偏りが悪いとは言えないかもしれないが、それはすべての情報の偏りが良い、無害であるとも言えないことを意味している。問題のある情報は、表向きの顔としては、”正統で客観的で理性的で冷静で正しいことだ”と決めつけられているという可能性さえある。

 賢く情報を選別したり選べるという話は、循環ているところが見受けられる。うまく情報を扱うための方法に関する情報が一体どこから来るのかという問題を持っている。厳密には、うまく情報を扱う方法は、完全体としては存在することが物理的にできないと考えられる。無限の時間やリソースを要求しており、物理の学問で言う実際には観測できない論理上の神視点の値である"真値"と同じであるとそれは考えられる。現実には、各個人や各組織が、できる限りの範囲で、できる限りの視野で、常に決断や判断を迫られて存在しており、失敗したり間違えることをどんなことに対しても防ぐことはできない。あくまで、結果として、事例として、成功したり問題が起こらなかったこともあったかもしれないという程度が限界だと考えられる。

検索のあり方について (ポエム追加 2026/10/31)

 単純にワード検索において、"-[対象のワード]“とすることで、不適切であったり的はずれな情報源が頻繁に使う言葉を狙い撃ちすることが考えられる。それで期待した情報が出て来ない場合、それは検索が下手くそだったりするのではなく、調べたいトピックに関して作られている記事やコンテンツがないということを意味している可能性がある。情報がないということがわかること自体が、1つの情報として捉えられる。情報発信において、ブログ記事を書くきっかけやネタにはなりうるのではないだろうか。
 “で検索ワードを囲うことで、特定ワードが含まれていることを強制することもできる。ただそこまでするとだいぶ検索結果はごっそりなくなるものである。それが現実ということでもあるのかもしれないが。
 結局のところ、検索ワードにスペルミスがあったり多少外れた単語で検索しても、ヒットするように検索エンジンを作った結果、不適切なSEO対策で上位にあることが目的な企業サイト、アフリエイトやらなんでも、検索エンジンに特定話題に関して、“関連している"と誤認させて、検索エンジンの利用者に不当に干渉したりするサイトが、割り込む隙を与える結果となり、現在のひどい状況が出来上がったのではないかと考えられる。これはインターネットが本来、性善説を前提として作られ、その結果急速に使われるようになりつつ、その過程で様々な性善説が成り立たない社会問題に直面することを繰り返していることに関係しているとも思われる。
 ドットコムバブルあたりから考えられていたであろう、広告モデルに基づくビジネスモデルは破綻していると考えられる。破綻している歪みをプラットフォームの利用者に自衛と犠牲を強いて、やられた者が悪いという犯罪者の論理により、押し付けているのが現状だと考えられる。それでいてかつ、自衛の手段として広告ブロックを使っている人を叩いてみたりと、広告モデルに基づくビジネスをしている当事者であると思われる立場の存在による、八つ当たりも甚だしいところが多く見受けられる。
 広告モデルに基づかず、自由に情報発信ができるリスクのある場所と、情報発信は限られているが、有料であったり、条件付きでの利用だったりする場所の2つがあることが必要だと思われる。前者があることで、自由な言論というか、情報発信を確保しつつ、後者があることで、各個人は各個人の最低限の情報基盤を構成するというものである。ここで重要なのは綺麗事を強制しないことである。自由な情報発信の空間にはリスクが伴い、限られた情報空間においては不自由が伴うということが大前提として共有されている必要があり、各個人はそれぞれを必要に応じて使い分けるという前提が必要だと考えられる。
 また、情報の扱い方の前提として、心身ともに余裕があり、冷静な判断ができるときに取り扱い、余裕がないときは必要最低限に限り、情報はなるべく触れないほうがいいとも考えられる。この前提が成り立つために、情報を受け取らなくなっても、大丈夫なように既存のサービスなどを構築する必要があると考えられる。アカウントを放置しても、勝手に消されないとかの配慮が必要であると考えられる。脅迫的に義務的に活動を迫るSNSなどのプラットフォームは不適切であると考えられる。