You said:
今ふと思ったのですが、よく容姿が悪かったり食べ物の食べ方がどうのとか、物理的に近接している前提でものごとを判断してしまう人がいます。
しかし、現実にはいろんなやり取りの手法があり、人の良さというものは物理的な外側だけでは語れず、実際目に見えない内面がひどく醜い人間がいることもよく創作では描かれています。実際には逆もしかりで内面と外面は一致しないし、両方成立させることは私は困難であるとみています。
そこでなのですが、外面中心にかかわる人間関係が今はまだ主流ではありますが、内面中心に人と関わるということもこれからは同じ重さを持っていていいと思うのです。どちらが優劣ということではなく、どちらも同じくらいであることが重要です。外面がよく人と直接かかわるのが得意な人はそれでいいし、内面が得意な人は人と物理的には一切合わずに何かを進めたりしていてもいいはずです。顔とか見なくても進むものごとはあるはずであり、五感、特に視覚や聴覚、嗅覚に依存した物理的、直接的な評価をすべての人に通じるものとして判断、評価したり扱うのは暴力であるとします。
そしてどちらも嫌だという人にも、本来居場所が必要です。